先日、高齢の父が「親鸞展」を見に行きたいというのでお供(おとも)でついていった。
生誕850年を迎える親鸞聖人をお祝いして、京都国立博物館で大々的に開催されている親鸞展は、浄土真宗各派の寺院から集められた法宝物が一堂に会し、なかなかに見ごたえのある展覧会だった。親鸞聖人や「歎異抄」の著者といわれている唯円の直筆の書状や写本もたくさんあり、あの有名な
『善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや』
の一文の直筆を見た時は感激した。
ゆっくり観覧していると3時間近くがたっていて、わたしはけっこう疲れていたのに父が大丈夫そうだったのには感心した。昔の人、恐るべし。
父も大満足して帰ってくれて、なかなかによき日だった。
親鸞展に行って、数年前に少し仏教に関心を持っていたころのことを思い出す。(いつものことだけど、興味をもつとしばらく熱心に本を読んだりするんだけど、すぐにマイブームが過ぎ去る…というやつ)
その当時NHKの「100分de名著」という番組で、歎異抄が取り上げられていて、その番組のテキストを買っていたのがまだ本棚に残っていたので読み返した。
そして改めて「他力本願」のありがたさに気づいた。
「他力本願」の教えとは
阿弥陀様の本願(他力)によって人は救われるというもの。
それに対する「自力」とは
善い行いをして功徳を積む(自力)ことによって救われようというもの。
阿弥陀様の本願とは
浄土に生まれたいと願うすべての人々を救うこと
わたしたちは自力でがんばらなくても阿弥陀様に信心すれば救われる、という教えなんですね。
もちろん親鸞は「善行」を否定しているわけではなく、阿弥陀様が救ってくれるから自分勝手な生き方をしてもOKと言っているわけではないので念のため。
いくら善い行いをしていても、そのことで慢心していい気になってはいけない、という戒めなのではないか?と「歎異抄」の解説をされている釈徹宗さんはおっしゃっている。
確かに慢心すると謙虚な気持ちがなくなるから、それならむしろ善行を積むことがよくない心がけにつながるもんね。
その一方で善行を積めないわたしのような人間でも信心さえすれば救われる、というありがたい教えなのだ。
極楽浄土があるかないか…ということについては、正直ないかな~と思っている不信心なわたしだけど、そんなわたしでも救ってくださるのでしょう…という安らぎ…